2015年1月30日金曜日

ビパッサナーのこと

なんだかしばらく忙しくってビパッサナーのことが書きかけで中断していました。ぽりぽり。

前にちらりと書きましたが、7日から10日間(前後を入れて12日間)、ビパッサナー瞑想に行ってきました。10日間(正しくは10日目の朝の九時半まで)、誰とも口を聞かず、ボディランゲージのようなコミュニケーションも取らず、ただひたすら座り続け、自分自身の身体の感覚を見つめていく10日間はとても貴重な体験でした。

一日のスケジュールとしては、四時起床、四時半から六時半まで朝の瞑想、六時半から朝ごはん、八時からまた瞑想、11時にお昼ご飯と休憩、一時からまた瞑想、五時にお茶の時間、六時からまた瞑想、七時から法話を聞き、九時に就寝、という一日中ほとんど瞑想をし続けるものでした。

最初の三日間はアーナパーナといって、自分の呼吸をひたすら見つめる瞑想。鼻から入り出ていく呼吸をひたすら見つめていきます。鼻の入り口、鼻孔の入り口、鼻の下、上唇の上の間の小さなエリアをただ感じていくのです。最初はよくわからなかった感覚も、鼻の入り口に焦点があい、ズームインしていくような感じで、息の出入りがわかるようになっていきます。

でも、最初はほんとに座り続けるのが苦しくって、前からちょっと調子の悪かった左股関節、膝、足首が痛むわ、前歯の歯槽骨上下とも痛むわ(きっと緊張して夜、寝ている時に力が入っていたのだと思います。右下の奥歯を抜いてから、かみあわせが変わり、時々、前歯が痛むようになりました)、色んな気もちがわきあがってきて、叫びたい気持ちになるけれど、叫ぶことは当然できず、最初の二日間はほんとうに長く苦しく感じていました。

でも、いつの間にか、自分の坐骨がどう位置し、どう座布団に触れているか、右と左がずれていることなどが急にわかるようになり、おや、と思い始めました。

四日目になると、いよいよビパッサナーになります。頭のてっぺんから、少しずつ少しずつ身体の表面をくまなく感覚を感じていくのです。痛み、あたたかさ、冷たさ、違和感、逆に気持ちいい感じ、服や靴下や外気に触れている感じ、何も感じない、など、なんでもいいのですが感じていきます。感覚を感じたらすぐ、次の場所に意識をどんどん移していきます。そうするうちに、最初、痛みの強かった場所の痛みがひいていったり、どんどん身体の感覚が変わっていくのが実感できます。ゴエンカさんによると、瞑想しながら感じる身体の箇所に現れる「痛み」は「怒り」や「嫌悪」など、自分の心の中にあるものがうきあがってきたもの、心地よい感覚は「渇望」などが現れたもの、どのような感覚も生まれ、消えていくもの、ただ、感覚の変化を通じてそれを平静な心で見つめていく、と。

(これをしながら、接触鍼や皮膚にあてるだけの鍼がなぜきくのか、というのがすごく実感できました。痛みや触れている感じ、温かさ、冷たさといったものを感じる受容器は皮膚にあるので、その感覚を感じるところにする鍼は、すごくまっとうだし(もちろん、時には深いところに鍼をすることも必要なこともありますが)、そして瞑想をすすめるうちに感じる「痛み」など、身体(そして心)の中から、昔に自分の中にためてしまっていた「嫌悪」などの感情や反応など、深いものが浮かびあがってくる、というのも、積聚治療でも、治療を進めるうちに、深い「積(気が集まったもの、特にお腹に出る反応)」が浮かび上がってくる、というのに、似ているなあと思ったのでした。一か所一か所の鍼が身体全体を変えていく、というのも、瞑想で意識を動かして身体の感覚を見ていくうちに、他のところでものすごい痛みがあったのが、別のところの感覚を見ているうちに軽くなったりと、身体はそこの部分だけで存在しているのではない、という当たり前のことを実感することによってまた納得したのでした。そしてこれも、痛みがある場所でない場所に鍼やお灸で刺激しても、痛みが変わっていくことと一緒。うーむ、やっぱり鍼灸ってすごいかも。)

色んな雑念はわいてくるので、それはBGMとして聞き流し、感覚を見つめていくこと、に集中する、と。そんな中で、ああー、ごめんなさい、ってことも、「なんだか具体的なことは思い出せないけど、『許せない』って気持ちだけが残る」ってことも、そして、逆にありがたさで胸からあったかいものが広がって、涙がぽろぽろと自然と出てくることも色んなことが起こっては過ぎていきました。感覚をただ見つめていくうちに。

そのうち、皮膚の表面を感じているつもりが、いつの間にか自分の骨の位置がわかってきたり(右肩関節は左より内旋しているみたい、とか、歯槽骨ここまであるのね、とか)、足元の歩く感触に注意を払っていると、霜柱にも色んな種類があるようだ、と気付いたり(じゃくじゃくと硬いものから、ふわっととけるような粉雪のような高級かき氷のようなものまで)、そして、自分の足がずいぶん偏平足になっている(足元の地面にあたる面積、思ってたより広い―)、と気付いてショックを受けたり、木々の葉っぱの一枚一枚が目に飛び込んでくるように感じたり、色んな事に気付けました。

参加してた皆さんも、素敵な人ばかり。うー、また座りに行きたいなあ。帰ってきてから、毎朝一時間の瞑想は続けています。やっぱり瞑想をして一日をスタートさせるのは、気もちのいいものです。うふふ。アニッチャー。

あみねこ瞑想@Zumaia, Spain

2015年1月20日火曜日

まみちゃんのこと

ビパッサナー瞑想に行ってきました。色々深い体験で、見るもの、触るもの、自分の足元や体全体の感覚が変わっていたとか、書きたいことはいっぱいあるのですが、瞑想中に自分の身体の感覚や呼吸を観察しながらも、色んな雑念や思い出が浮かんでは消えていくのですが、その中で思い出して、胸があったかくなったことを一つ覚え書き。

高校の時に保健室にまみちゃんという先生がいました。優しい小柄な年配の女性。みんなに「まみちゃん」と呼ばれていました。高校の時、当時、差向うと緊張がぱんぱんにはりつめていた親と離れたいため、寮のある学校を選んで入ったわたの子、大切な友達もできたけれど、どうしても心がしんどくて身体もだるいとき(高校生は高校生の悩みがあるものです、友達と同じ人を好きになってしまったりとか、進路がまったくわからないとか)、時々、お昼休みに保健室に行っていました。

別に何をするわけでもなく、まんがを読んだり、他の子がやっているジグゾーパズルを見たり、ただ、そこにいただけ。まみちゃんは特に何を言うわけでもなかったけれど、最後、卒業する時に、「自分自身と仲良くね」と言ってくれた。座って瞑想しながら、自分の身体の感覚を見つめながら、思い出して、涙がぼろぼろ出た。身体の感覚も痛かったところがふわっとゆるんで、変わっていくのがわかったな。

私もまみちゃんみたいになりたいな。エライ人とか立派な人になんかならなくていいから、今、自分がいるところでまみちゃんになろう、って深く思った。

ブッダは自分自身をよりどころにしなさい、どんなに嵐がきたとしても、避難できる小島を自分自身に作りなさい、と言っていたけれど、きっとその小島にまみちゃんは住んでいるな。


2015年1月7日水曜日

地に足をつけること、つばさを持つこと

この前、はっとした友達の言葉。

「自分がテーマにすることは祭りとしてではなくて生活としてやっていかないと、論理のための論理みたいになっちゃうよね。地に足つけてやっていきたい」

と。何か「特別な場所」、「特別な空間」、「特別な時」だけにあるのではなく、毎日の暮らしを丁寧に生きていくことが大切なんだなあ、とはっとさせられました。

私にとっては何かな。フィンドホーンはすごくよかったし、ガーデンも、クリスタル(手仕事好きな友達と集まって一緒に手作りする場所)も、朝のテゼも瞑想も、友達も、すべてが懐かしいし、恋しい、帰りたいという気持ちがあります。

何が恋しいんだろう。心がふわっと広がること。自然と調和した生き方。心を開いて目の前にいる人やものと出会えること。こういうものを作りたいと心がわくわくすること。すると身体も元気になります。しゃきっと朝、勝手に目が覚めます。

でも、ほんとはそれって「今ここ」でも体験できることのはず。「非日常」で得た感覚を「日常」に組み込むこと、フィンドホーンの体験を日本での暮らしにどう落とし込むことが、今の課題だなあ。

しっかり日常を生きることは、地に足をつけること。旅をすることは、つばさを持つこと。そのどちらもがちゃんとあってこそ、Lovelihoodにつながるのだと思います。

「日常」と「非日常」、「暮らすこと」と「旅すること」、「現実を見つめること」と「想像力の大切さ」、両方バランスよく楽しんでいけたらいいなー、と思います。

(そして、身体としても、しっかり地に足がついた芯が通った姿勢は安定するし(グラウンディングというように)、だからこそ、上半身ものびやかになれる、楽に翼(胸郭を広げ、肩甲骨からつながってる腕のラインかしら(笑))を広げられるんだろうなー。)



ところで、明日からちょっとお出かけしてきます。ありがたいことに、今月末からお仕事が決まったので、その前に、やりたいことをやっておこうと(笑)。前に鍼灸友達が行ってすごくよかったという、ビパッサナー瞑想10日間リトリートに行ってきます。


2015年1月5日月曜日

からだの地図

ボディ・マッピングってご存知でしょうか?自分の中の身体のイメージ。

先週、いい本を買いました。その名も『DVD BOOK ボディ・マッピング だれでも知っておきたい「からだ」のこと』(バーバラ・コナブル、エイミー・ライカ―著、小野ひとみ訳)



アレクサンダー・テクニックの先生が書かれている本だそうです。自分の身体の地図を見直そうというもの。

特にすごいのはDVD。思い込みや習慣で自分の身体に制限をかけている「ボディマップ」を修正していく方法を、具体的な解剖学的イメージと、動きの例などをあわせて丁寧に説明してくれているのです。

たとえば、関節はどこにあるのか(どの動きだと、どこから動いているのか)、どこに中心のラインがあるのか、肺の位置と呼吸する時どの部分を使っているのか、などなど、見て、ちょっとやってみるだけで、身体の感覚が変わっていくのがわかります。

例としてあげると、「うんうん」でうなずく時の関節と、「いやいや」と首を振る時に使う関節が別だってこととか、手首は、手と腕の境目の線のある部分だけじゃなくって、手のひらの下側の意外と大きな部分(手首は8つの骨でできています)だったということとか、上半身と下半身の境目はウェストではないということだとか、とにかく、「なんとなーく」思っていたことが、実はまったくの思い込みだったと気付くだけでも、かなりの驚きがあるのです。

わたの子も鍼灸師なので、学校で解剖学は勉強しましたし、患者さんの身体に触れてきたので、多少は知識があるつもりでしたが、自分の中の身体の地図は、かなりもやがかかっていて、修正が必要だということを実感しました。

そしてこの作業、けっこう楽しい!見知らぬ土地(自分の身体だけど)を探検していく感じ。どこに林があるのかな、と骨を探り、どこに橋がかかっているのかな、と関節を見つけ、どこがどう動くか、どう感じるか、を確かめるこの作業(触診用にはこれまたいい本、『ボディ・ナビゲーション』という本があったけれど、『ボディ・マッピング』は自分で感じて動いて確かめる、セルフ身体ディスカバー本なのです)。

身体の地図がはっきりすると、動くのもスムーズになるみたいだし、楽しみだなあ。自分の身体と仲良くなれるのって素敵ですよね。

2015年1月2日金曜日

サインと初ちくちく

1月2日、2015年も二日目になりました。

2015年はどんな一年になるのでしょう。予定は立てられるとしても、実際のところは起こってみるまで、何が起こるか、どこへ行くのか、わからない、というのがほんとのところ。でも、心配しないで、ただ、目の前に現れてくるサインを受け取って、自分のペースで歩いていけばいいのかなあ、と思います。

!Buen Camino!

この絵は9年ぐらい前に、Camino de Santiagoを歩いた時に、そこで出会ったイタリア人のお友達と一緒に描いたもの(正しくは彼女がほとんど描いて、私はちょこっとだけお手伝いしました。笑)。

カミノに限らず、行く先には矢印(サイン)が現れているから、心配せずに、楽しみながら、歩いていけばいいのかなあ、と思います。そういえば、時々、矢印が違う方向に二つあるとこもあったけど、結局は同じところに着くんだった、人生もそんな感じかしら。

閑話休題。2015年初ちくちくしました。アイヌ刺繍、楽しい―。

初ちくちく

ピンク(白~ピンクのグラデーション糸)と青い糸は二本取りでちくちくしたのですが、どこかパンチが足らず。アイヌ刺繍では、赤い糸を必ず入れると聞いたのを思い出し、一本取りですが足してみました。急に刺繍が引き締まる感じ。アイヌ刺繍を教えて下さったまきこさんが、「刺繍は刺繍の行きたい方にいくのよー」といっていたのを思い出しました。自分の手を使っているけれど、時には思いもよらないものになる、刺繍の意思というものがあるのかも、それって、治療や自然も同じなのかなあ、とちくちくしながら思う2015年の二日目でした。

2015年1月1日木曜日

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。2015年も、素敵な一年となりますように。少しずつでも、幸せの種をまき、育てることのできる一年となりますように。鍼灸と手仕事と土に親しむ生活ができますように。みなさまにとっても素敵な実りある一年となりますように。


2015年初コラージュ

新年なので、コラージュ作りました。フィンドホーンで仲良くしてもらっていたYさんのおうちで、チョキチョキして次回に使おうと残しておいたイメージが残っていたのを思い出し、ぺたぺた貼って、できあがり。コラージュ作り、楽しい―。

2014年12月31日水曜日

つくること、手間をかけること

友達に教えてもらって、早川ユミさんの本を読んでいます。『種まきびとのものつくり』、とってもとってもいい本です。早川ユミさんは、高知の山のてっぺんに住む布作家さん。畑をやり、植物を育て、布でちくちく色々作って、時々旅をして、そしてそれを本に書いてらっしゃいます。

『種まきびとのものつくり』


「人間らしい暮らしって、どんな生活でしょう。太陽や月や、土や水、自然のいちぶであるひともぐるぐる巡る循環のなかにいきています。つくるとうれしいし、育てて実ると、生きている実感にあふれて暮らしがゆたかになります。ちいさな畑にたねをまきましょう。ちいさなものを買わないで、ちょっとつくってみましょう。わたしらしい暮らしを紡いでみましょう。わたしたちの手やからだやこころの声にみみをかたむけてみましょう。」

「ものをつくることは、からだやこころを開放するためですから、こうしなくっちゃとがんじがらめに思わないで、やさしい気もちでちいさいところから、ちいさくはじめましょう。生きるちからやつくる手は、ひとりひとりみんなのからだのなかにはじめから、そなわっているのだから。」

ううー、とってもぐっときます。わたの子がしたいのは、こういうことなのかもしれません。ぐるぐる巡るいのちの循環のなかの一部として、自分にもまわりの人や動物、植物や地球にもやさしい暮らしを探していくこと。からだやこころを開放すること。手でつくること。手で触れること。手やからだやこころの声をきいていくこと。

ごきげんな暮らし(Lovelihood)は、こういう暮らし。都会の近くに住んで、スーパーで買い物をして、携帯電話もパソコンも使わせてもらっているけれど(そしてそれはありがたいこと)、できることから、少しずつ、少しずつ、「消費する暮らし」から「つくる暮らし」に近づいていけるといいなあ。緑と仲良くして、鍼灸して、少しずつ、手作りしていけるといいなあ。

つくること、手間をかけること、大事に作られたものは特別だし、人間だって大事にされたら、嬉しくってうふふとなるもの。

そうそう、鍼灸の一番大事な点も、「手で触れること」だと思うのです。手は色んなことを感じます。「ああ、頑張ってきたんだなあ」とか、「ちょっと休みたい、と言ってるなあ」とか。鍼やお灸は金属や植物を使った物理刺激ですが、どんな刺激もおんなじではなく、手で触れていくから、そのときどきのいのちと出会うものだから、特別なのです。

ベレーにフェルトと刺繍をちくちくして作った帽子
"No mud, no lotus"